東京地方裁判所 平成8年(特わ)1999号 判決 1997年4月30日
主文
被告人を懲役二年六か月に処する。
未決勾留日数中一六〇日を右刑に算入する。
理由
(犯罪事実)
被告人は、法定の除外事由がないのに、平成八年四月二四日ころから同年五月八日までの間、東京都内及び栃木県内又はその周辺において、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパン若干量を、自己の身体に摂取し、覚せい剤を使用した。
(証拠)<省略>
(争点に対する判断)
一 弁護人は本件の被告人の尿の鑑定書(甲5)の証拠能力につき、〔1〕覚せい剤の所持が不起訴になったことからすれば、覚せい剤所持での逮捕は誤認逮捕として違法であり、その期間中に押収された尿は違法に収集されたものといえる〔2〕現行犯逮捕の際の警察官による覚せい剤の発見押収手続に違法があるため、採尿手続も違法性を帯びることを理由に、違法収集証拠として証拠能力を欠き、証拠から排除されるべきであると主張し、さらに、被告人は、本件の覚せい剤の使用を否認し、弁護人も、被告人には覚せい剤使用の故意がないから、被告人は無罪であると主張するので、以下、順次検討する。
二1 証人岡部節男、同岩本芳文及び同指宿幸広の各公判供述、公判における検証の結果、現行犯人逮捕手続書(ただし、不同意部分を除く。)、捜索差押調書、採尿状況報告書、鑑定嘱託書謄本三通、鑑定書三通、押収してある覚せい剤一袋(平成八年押第一七一八号の1)及びジャンパー一着(同押号の9)、被告人の公判供述などの関係各証拠によれば、被告人が覚せい剤所持の現行犯人として逮捕され、その後尿を提出した経緯について、次のとおり認められる(年月日は、いずれも平成八年五月八日である。)。
(一) 警視庁第二自動車警ら隊に所属する岡部節男巡査部長(以下「岡部」という。)と岩元芳文巡査(以下「岩元」という。)は、野澤誠治巡査とともに、警ら用無線自動車(以下「パトカー」という。)で管内の警らをしていた最中の午前一時三二分ころ、覚せい剤事犯の多発地域内の東京都新宿区歌舞伎町二丁目四六番付近路上に至ったとき、一見遊び人風の被告人が一人で道路を歩き、パトカー内の岡部から「こんばんは」と声を掛けられるとすぐに顔をそむけて足早に右折して立ち去ろうとしたので、不審と認め、職務質問をすることとし、まず、岩元が降車して被告人を約一五メートル追跡し、同町二丁目四二番一〇号の新宿公共職業安定所前歩道で、被告人に対し、背後から「ちょっと待って下さい。職務質問です。」などと声を掛けたが、被告人は、「なんで俺だけやるんだ。ほかにもいるじゃないか。」などと言い、被告人の顔色等から薬物使用者ではないかと疑いを抱いた岩元から「何か危ない物は持っていませんか。」と言われたのに対して「何も持っていないよ」と言いながら、前に向き直り立ち去ろうとした。そこで、岩元は、被告人の前方に回り込み、「ちょっと待ってくれ」などと言いながら、両手を大きく広げて立ち塞がった。被告人が、それにかまわず前に進もうとしたため、被告人と岩元の体はぶつかり、岩元は後退しながら被告人の前に立ち塞がり続けた。間もなく両名のもとに来た岡部は、被告人の顔をみて覚せい剤の使用者かもしれないと思い、その場から歩き去ろうとする被告人に対して、「ちょっと待ってくれ」などと言った。岡部と岩元は、被告人がその場に静止しているときには、被告人の前方に立ち塞がるのみであったが、被告人が向きを変えれば、その前方に回り込み、被告人が前に歩き出すと、被告人の前方に立ちながら後退するという形で、被告人の動きに応じて、被告人に停止を求めた。被告人は、この岡部と岩元に向かって「何で俺ばかりやるんだ。俺だけ何で職質なんだ。他の者もやればいいじゃないか。」などと大声でわめいたので、岡部と岩元は不審を強めて、引き続き被告人に所持品を見せるように言った。
(二) やがて、立ち止まっていた被告人が、ジャンパー(平成八年押第一七一八号の9)の右側の、入口の線が地面にほぼ垂直なポケット(以下このポケットを「横向きのポケット」と言い、ボタン付きで、入口の線が地面と平行のポケットを「上向きのポケット」という。)に入れていた青色ハンカチ包みを取り出していたところ、岡部から「ちょっと見せてみろ」と言われたのに対して、被告人は、「ダイヤだ。ダイヤだ。」などと嘘を言い、岡部は、これを手に取り、その中にカフスボタンとネクタイピンが入っているのを確認した後、すぐに被告人に返した。その後、岡部が被告人の名前を尋ねたところ、被告人は即座に柿沼太郎と答えたが、岡部はこれは本名ではないと感じた。
(三) しかし、次いで岡部が「他には何もないですか」と言うと、被告人は、語気を強めて「死んでも見せない」と言い、岩元が「何で見せられないんだ。見せられない物でも持っているのか」などと言ったのに対しても、被告人は「絶対に見せない。ポケットに手を入れて出したら泥棒だ。」などと言ったため、岩元らは、被告人が覚せい剤を所持しているのではないかとさらに不審を強めた。
その後、その場を通りかかった森田茂樹巡査部長と下坂有邦巡査が来て、被告人は、付近の植込に自分から座り、岡部の質問に対して、名前を名乗ったので、岩元が指名手配の有無等を確認したところ、被告人に覚せい剤の前歴があることが判明した。一方、下坂が、被告人に対し「我々もいいかげんな気持ちで職質しているのではない。服の上からなら確認させてもらってもいいだろう」などと説得すると、被告人は、「服の上からなら」などと言ったので、岡部が、右手で被告人着用のジャンパーの左側ポケットを外側から触り、つまむなどしたところ、注射器と思料される物が手に触れたため、被告人に「この中の物は何だ。中を見せてくれ」と言うと、被告人は「絶対見せられない。ポケットに手を入れたら泥棒だ」などと言った。岡部は、岩元に目配せで、被告人のジャンパー左ポケット内に禁制品があると教えた。この時点では、被告人の左側には、岡部が座り、森田、下坂及び岩元は、被告人と一ないし一、五メートルくらい離れて立っていた状態であった。
(四) その後、被告人の正面に立った岩元が、「その左ポケットには何が入っているんだ。上からならいいんだな。確認するぞ。」などと言い、被告人が「ああ、上からならいい。」と答えたので、岩元は、被告人着用のジャンパーの左ポケットごしに注射器と思料される物を右手の親指と人差指から小指の間に、右手のひらに包み込むように挟み込み、右手の親指と人差指から小指を交互に左右に数回動かした後、注射器と思料される物を右手のひらにのせた状態で右手のひらを二回上に弾ませるように持ち上げたところ、ジャンパーの左側の横向きのポケットから、ゴム(平成八年押第一七一八号の8)で止められたピンク色のハンカチ包み(同押号の7はそのハンカチ)が飛び出したので、被告人の左側にいた岡部がそれを受け止め、すぐに岩元に渡した。岩元が「中身を確認するぞ」と言って、その包みを開こうとしたのに対して、被告人は、片手を岩元の方に伸ばしてこのハンカチ包みを取り戻そうとしたが、岩元は、それに構わず、午前二時ころ、被告人の面前で、このハンカチ包みを開き、中に覚せい剤約〇・三〇二グラムの結晶(以下「本件結晶」という。平成八年押第一七一八号の1はその鑑定消費した残量)入りのビニール袋一袋、覚せい剤(同押号の2はその鑑定消費した残量)が付着したビニール袋一袋、注射器一式(同押号の3)、注射筒一本(同押号の4)、注射針三本(同押号の5)、つまようじ一本(同押号の6)があるのを発見した。
岡部が被告人に「これは何だ。」と質問すると、被告人は、ふてくされた様子で「薬だ。」と答えた。
(五) 岡部らは、従前の経験から、本件結晶は覚せい剤であると確信したが、覚せい剤の所持事犯として現行犯逮捕するにあたって、化学的に覚せい剤であることを確認するいわゆる予試験を経ようと考え、被告人に「鑑定するからな。パトカーに乗ってくれ。」などと言って、岡部が被告人の片腕をつかんだところ、被告人は、格別抵抗する態度を示さず、パトカーに乗り込んだ。
(六) 午前二時一九分ころから、警視庁新宿警察署の志村剛裕巡査部長による本件結晶についてのいわゆる予試験が行われたが、その際、志村が、被告人に、覚せい剤かどうか検査する旨告げたところ、被告人は、「勝手にしろ」と答えた。また志村が「これは何だ。」と尋ねたところ、被告人は「風邪薬だ。」と答えた。予試験の結果、本件結晶は、覚せい剤であるとの反応がでたので、被告人は午前二時二一分ころ、覚せい剤所持の現行犯人として逮捕された。
(七) 被告人は、午前二時三八分ころに、パトカーにより警視庁新宿警察署に引致され、しばさき巡査部長による弁解録取と指宿幸広巡査部長による取調べを受けたが、指宿の取調べに対しては、「風邪薬か胃の薬か分からないけど、部屋にあったものを注射した。」などと供述した。指宿は、午前三時過ぎころ、被告人に対して「注射したのが覚せい剤かどうか証明のために尿を出してくれるか」と言ったところ、被告人はすぐに「いいよ」などと言って、尿の提出を拒絶する素振りは一切見せず、取調室から同警察署五階男子便所に指宿及び志村と共に赴き、指宿から説明を受けるなどした後の午前三時一五分ころ、採尿容器内に放尿して、これを志村らに提出した。
2 <省略>
三1 まず、弁護人の前記一[1]の主張について検討すると、確かに被告人は、覚せい剤の所持については不起訴処分にされているが、被告人が、着用していたジャンパーのポケット内に現に覚せい剤を所持していたという事実がある本件において、覚せい剤の所持が不起訴になったからといって、被告人を逮捕したことは誤認逮捕にあたらないから、弁護人の主張は採用できない。
2 次に、弁護人は、前記一[2]の主張に関して、<1>職務質問に着手できる要件がない<2>職務質問継続のために、違法な被告人の身柄拘束があった<3>捜索差押令状をとらないまま職務質問・所持品検査を継続した<4>被告人の承諾なしにポケットからハンカチ包みを取り出したとの四点から、本件所持品検査には違法があり、被告人の現行犯逮捕、それに続いてなされた採尿手続は違法性を帯びると主張するので、順次検討する。
(一) 右<1>の主張については、岩元が職務質問を開始する時点で、深夜、覚せい剤事犯の多発地域内を歩いていた被告人が、パトカーを見ると顔をそむけ、足早に立ち去ろうとしたなどの事情があったことから、被告人は、警察官職務執行法二条一項の「異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当の理由のある者」に該当すると認められ、本件での職務質問の着手は適法である。
(二) 弁護人の右<2>の主張については、岩元及び岡部は、路上で被告人の顔を間近に見て覚せい剤等の薬物使用者の疑いをいだき、職務質問、所持品検査に応ずるよう言ったのに対して、被告人がこれを拒絶し立ち去ろうとしたため停止させるべく被告人の前方に立ち塞がったもので、被告人の身体を拘束してはいないから、弁護人の主張はあたらない。
(三) 次に、弁護人の右<3>の主張について検討すると、警察官が被告人に対して所持品を見せるよう要請したことは、被告人の任意の承諾を得て所持品検査をしようとして行われたものである。弁護人は、被告人が約二五分間所持品検査の要求をひたすら拒否していたと主張し、確かに被告人がジャンパー右ポケット内の所持品以外の所持品の提示を拒否していたことは認められるものの、岡部らが被告人を発見してから、本件覚せい剤等を包んだハンカチ包みが開披されるまでの約二八分間のうちには、被告人が自ら植込に座ったり、着衣の外側から岡部らが手を触れることを承諾したなどの事情もあるので、約二八分間警察官に対して、いかなる態様による所持品検査であろうともすべて拒絶するとの意思を表明していたわけではない。本件の事実経過のもとでの警察官による被告人に対する所持品提示の要請は、任意手段としての所持品検査に応ずるようにとの説得行為であり、それ自体に捜索差押令状が必要とは解されない。
(四) さらに、弁護人の右<4>の主張を検討する。
薬物使用者との疑いのあった被告人が当初は岩元らによる職務質問に応じず、立ち去ろうとしたこと、その後ジャンパーの右ポケットのハンカチ包み以外の所持品の提示を強く拒絶したこと、名前について一度は嘘を述べたこと、岡部がジャンパー左側ポケットの外側から手を触れた際に注射器と思料される物に触れたことなどの本件の事実経過のもとでは、岩元が被告人に対し、被告人のジャンパー左ポケットの所持品を確認すると告げた前記二1(四)の段階においては、被告人に覚せい剤の使用又は所持の嫌疑があり、被告人の言動と相俟って所持品検査の必要性、緊急性を肯定でき、捜索に至らない程度の行為は、強制にわたらない限り相当と認められる限度において許容されるということができる。
しかし、本件では、ジャンパー左ポケット内の所持品をポケット外に出すことについての被告人の承諾がないのに、そのポケット内の注射器と思料される物を岩元が右手の指の間に挟み込んだまま、右手の指を交互に数回動かした後、注射器と思料される物をポケット越しに右手のひらにのせた状態で右手を二回弾ませることによって覚せい剤や注射器等を包んだハンカチをポケット外に取り出したうえにハンカチを開披しており、この行為は、一般にプライバシイ侵害の程度の高い行為であり、かつその態様において捜索に類するものであるから、本件の具体的な状況のもとでは、相当な行為とは認めがたいところであって、職務質問に付随する所持品検査の許容限度を逸脱した違法なものである。このような違法な所持品検査によってはじめて覚せい剤所持の事実が明らかになった結果、被告人を覚せい剤取締法違反被疑事実で現行犯逮捕する要件が整った本件事案においては、右逮捕に伴い行われた覚せい剤の押収手続は違法といわざるを得ない。そして、採尿手続自体は、被告人の承諾があったと認められるものの、前記一連の違法な手続によりもたらされた状態を直接利用して、これに引き続いて行われたのであるから、違法性を帯びるというべきである。
しかし、他方、本件においては、職務質問の要件が存在し、所持品検査の必要性と緊急性とが認められること、被告人は、自ら植込に座って警察官に応対していたこと、岡部や岩元もジャンパーの外側から手を触れることには承諾し、岩元もジャンパーの外側から手を触れたものであり、他に所持品検査に際し強制等のなされた事跡も認められないこと、岩元らは被告人に対してジャンパー右ポケットの在中品以外の所持品を提示するよう何回も要請したが、被告人が強い拒絶の態度をとったために前記の行為に及んだもので、警察官において令状主義に関する諸規定を潜脱する意図があったとはいえないこと、採尿手続自体は何らの強制も加えられることなく、被告人の自由な意思での応諾に基づいて行われており、しかも被告人は警察官の尿提出の要請を受けて直ちにこれを承諾したこと等の事実を考慮すると、本件所持品検査及び採尿手続の違法は未だ重大であるといえず、右手続により得られた証拠を被告人の罪証に供することが、違法捜査抑制の見地から相当でないとは認められない。
3 したがって、被告人の尿の鑑定書は証拠能力が認められるというべきである。
四 1 さらに、被告人が覚せい剤の使用を否認し、弁護人が、被告人には覚せい剤使用の故意がないと主張する点について、検討する。
2 鑑定嘱託書謄本(甲4)、鑑定書(甲5)によれば、被告人が平成八年五月八日任意提出した尿から覚せい剤反応が認められ、同年四月二四日ころから同年五月八日までの間に、被告人の身体に覚せい剤が摂取されたことは優に認定できる。
3 そして、被告人が以前覚せい剤を使用した経験があり、覚せい剤を摂取した場合どのような感覚になるかを把握していることから、被告人の尿から覚せい剤が検出された以上、体内に覚せい剤が入ったことについて合理的な弁解がなされない限りは、被告人が故意に覚せい剤を使用したものと推認することができる。
被告人は、公判廷において、当初は、尿から検出された覚せい剤は平成八年四月二四日より前に使用したものがでたと思うと供述していたところ、検察官から、覚せい剤が尿から検出されうる期間として、平成八年四月二四日より前の使用はあり得ない旨追及されると、知人の乙山の部屋で使用した食器類に覚せい剤が付着しており、覚せい剤が付着しているとは知らずにその食器類を使用して飲食したので、覚せい剤が摂取されたのではないかと弁解している。しかし、被告人が右の弁解をなすに至った経緯は、右に述べたとおりの唐突、不合理なものである上、被告人自身は、摂取の時期も特定できず、しかも、他方、自己の尿から覚せい剤が検出されたと警察官から知らされても、何故覚せい剤がでたかわからず、平成八年四月二四日ころから同年五月八日までの間に覚せい剤を身体に摂取したという感覚もなかったというのであるから、被告人自身に、尿から検出された覚せい剤が、乙山の部屋で覚せい剤の付着した食器類を使用したことによるとの認識があったとは認め難く、被告人の弁解は、曖昧、不自然、不合理であり、信用できない。
4 <省略>
(累犯前科)
被告人は、平成三年一〇月一六日東京地方裁判所で覚せい剤取締法違反の罪により、懲役二年六か月に処せられ、平成六年三月一六日右刑の執行を受け終わった。
右の事実は、前科調書及び判決書謄本(乙11)により認められる。
(法令の適用)
罰条 覚せい剤取締法四一条の三第一項一号、一九条
累犯加重 刑法五六条一項、五七条
未決勾留日数の算入 刑法二一条
訴訟費用の不負担 刑事訴訟法一八一条一項ただし書
(公訴棄却の申立てについて)<省略>
(量刑の理由)
本件は、被告人が覚せい剤を使用した事案であり、被告人には同種の覚せい剤事犯の前科が五犯あり、覚せい剤に対する親和性が認められること、本件犯行について不自然、不合理な弁解に終始し、改悛の情はみられないことからすれば、被告人の責任は重いというべきで、土工として稼働していたことなど被告人のために有利に斟酌すべき事情を考慮しても、主文のとおり量刑するのが相当である。
(裁判官 大圖玲子)